越後商人のべつに悪くはないコラム vol.1

こんばんは、長尾隆史です。

 

私たちは、新潟 燕三条でステンレスカトラリー(ナイフ・スプーン・フォーク)を中心としたキッチン用品全般を卸売りしている(有)ナガオという企業です。

 

さて、公式サイト上で突然に始まったこの”コラム”コーナー。初回です。わりと緊張しています。自分の緊張をほぐすためにも、まずは経緯から。

この文章の書き出しを知っているという方は、ごく少数であるものの、いらっしゃるはずです。そうです、私たちはこれまで外部サイトのプラットフォームでブログを運営していましたが、わけあって今後は公式サイト上での発信をメインにと考えています。主な理由は大人の事情です。どことなく察していただければ幸いです。

 

初めましての方が大多数でしょう。

はじめまして、(有)ナガオで取締役常務をやっている長尾隆史と申します。かんたんに自己紹介をすると、新潟県燕市生まれで創業者である祖父の孫です。文化服装学院を卒業後、アパレル販売業を経て、入社しました。15年くらい前のことです。もうそんなに経ちましたか。現在は、経営・営業・商品企画を主に担っております。

仕事の外では3人の子供の父であり、妻の夫であり、ひとりの人間です。そして、洋服・書籍・酒・音楽を愛す、田舎の小市民。私自身についてはこんなところです。

 

このコラムでは、商品紹介や説明などをしないつもりです。そういった内容は、トップページ一段目の”お知らせ”コーナーのほうで今後はどんどんと紹介してゆきます。

『じゃあなんだよ、コラムって』

はい、そうですよね。わかります。

私自身ですらコラムという片仮名3文字の意味を厳密に定義しているわけではないので、ズバッと言い切れないところではありますが、この文章は執筆者である私という個人に見えている世界をできるだけ正直に書き出した雑文です。

似て非なるものでエッセイといものがありますが、あれは一つの文章に対してきちんとテーマが決まっているので内容に沿った構成となっているはずです。すこし趣が異なります。

対して、このコラムはあくまでも雑文です。決まったテーマもなければ積極的に時事問題を取り扱うわけでもない。気の向くままに書き出された文章。なんとなく、twitterのつぶやきのやたらと長いバージョンが表現としては近いのかなあと思います。関係ありませんが、麻布競馬場さんの文章には衝撃を受けました。2020年代を映す鏡です。

とまあ、初回ですから大々的に”燕とは”とか、”燕三条とは”とか、大上段に構えられたものにはとくに触れません。ゆるゆると、のんびり始まってゆくつもりです。時には書きながらヒートアップしてそれ系の事も言うでしょうけれど、ぼんぼん後継ぎの戯言だと思って広い心でスルーしてもらえれば幸いです。

 

いやはや、とんでもなく長い前置きでしたね。文字数でいくと、ここまでで1100文字を超えています。現代のインターネット上では文章は人間が読むものではなく、機械のプログラムに食わせる情報となっているようです。そうはいっても、機械だって食べたくない情報もあるだろうし、変な物を食べたら腹を下すんじゃあないでしょうか。最近の機械は、人間との距離がだんだんと近くなってきていますから。

おっと、脱線しました。これは悪い癖です。こういう語り口には馴れてもらうほかありません。

とにかく、2010年代にスマホが一気に普及すると同時に、人間の文字離れも一気に加速した感があります。そう、現代の基準に照らし合わせれば、こんなに長い文章なんていうのはまったく読まれる対象にはならないのです。タイパが悪いどころの騒ぎではありません。対価はこれを読んでもまったくありません。誰も得をしません。長文失礼します。

 

べつに、人々の文字離れを憂う、面倒くさいおじさんになろうってわけじゃあないです。例えば本、読書。本なんて読んでもいいし、読まなくてもいい。読書と人間が幸福に生きることとの強い因果関係は無理やりこじつけなければ発見されていません(無理やりこじつけたい人もいっぱいいます)。誤解を恐れずにいうと、たかが本なんです。あれは人間の中に潜んでいるなにかを揺り覚ます呼び水のひとつであるとは思いますが、それ以上でもなければそれ以下でもない。あとは、たのしい娯楽でもありますね。私としてはそんなもんだと思っています。呼び水となる媒体は、他にも日常の生活の中にたくさんあるはずです。

ただ、私自身はこれまでの経験のなかで人並みには文章に触れてきているので、表現を発信するやり方がこのようなコラムという名の文章になっている。それだけです。その表現方法が音楽だっていいし、洋服だっていいし、酒を呑んでくだを巻いたっていい。

 

もう、ここまで読んでくれているのならば、最後まで読んでくれるものと信じていますが、文字離れの一端は、表現する側にもあると思っています。

よく、”大衆に迎合している”と、わりとネガティブな文脈で使われることのある言葉。これ、私は違うと思っています。正しくは”マーケターに迎合した”、もしくは”営業マンに迎合した”だと思います。彼らは人々にウケそうなポイントやツボやコツをよく知っています。その知識と技術を駆使して、1円でも、1部でもたくさん売ろうと思っています。それはある意味あたり前です。彼らにとっては売ることの最大化が仕事の神髄なのですから。

もちろん、そこには尊敬すべき仕事の姿勢がありますが、表現を創る側はそれだけじゃあいけない。なんなら、ほんとうに大衆に迎合することはとても刺激的だなあと思う。だって、生活者である大衆自身の”ほんとうのこと”に鋭く切り込んでいる内容を表現しているのだから。

 

活字という漢字があります。私はこれを字が活きて踊っているというふうに解釈しています。活きている文章は人間の中に潜むなにかを揺り覚ます呼び水となりえます。私自身、何度もそういう経験をしています。かんたんに言えば、私は本に書かれた文章に影響を受けています。

人間の感性はひとりひとり異なるので、なにによって揺り覚まされるのかはひとりひとり異なります。べつに、良書をチョイスして人々を啓蒙したいなんて1mmも思いません。ですが、インターネット上で氾濫水域に達している多くの匿名の文章は便所の落書きと一緒です(この文章だってそうだし、それが良い場合はもちろんあります)。匿名性は低きに流れがちなことが1995年から28年経ってようやくわかりました。そこに、理想の花は咲かなかった。

著名人のゴシップと無意味な分断と対立。サービスを無料で提供するテクノロジー企業の主な収入源は広告費です。彼らは、少しくらいその情報が眉をひそめるような代物であったとしても、不特定大多数へと拡散されて、それと同時に広告が表示される仕組みを構築した。

ターゲットのユーザー?冗談じゃない、生きている人間は射的の的なんかでは決してない。人間はあんた達がバラまいた毒から必ず再生する。なにかよって揺り覚まされて。

 

若干、熱くなりすぎました。落ち着け、私。

ほんとうは、分断と対立なんてほとんどないと思っている。情報が作り上げた幻にすぎない。幻は夢の中だけにしてくれ、私たちは現実で生活しなければならないのだから。

私はまだまだ青二才ですが、直接的に行動して、仕事で、その外側で、なにかを表現しようと必死でもがいています。そうです、必ず死ぬ運命の道の上でもがいています。

再三申し上げるようですが、べつに活字から離れても、本なんて読まなくてもまったく問題ありません。自分の中に潜んでいるなにかを揺り覚ます呼び水と出会えているならば。

 

これにて、コラムvol.1は結びとなりますが、自分で読んでみてもいったい何が言いたいのかいまいちつかめません。ぜひ、広い心で見てやってください。こういうふうに書くことは初めてなんです。

無理やりこじつける結論としては、みんな内側から湧き上がるなにかを推進剤として好き勝手に生きればいいと思う。もちろん、他者へ思想の押しつけなんてしない。私が勝手にそう思っているだけだから。

 

キメキメの表情で自撮り画像に収まる面倒くさいおじさん

 

2023/06/09

まったく期せずしてロックの日じゃん